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がん闘病からの復帰、そして10年

2015年01月22日

これまであまり語る機会も有りませんでしたが、闘病から10年を経て少し語っても良いのかなと思いまして、2015年のリニューアルを機に、がん闘病についてAbout Usに記載させて頂きました。

自分語りはあまり好きではないのですが、どこかに記しておくのもまた一興、同じがん闘病をされている方に読んで頂ければと思い、書かせて頂きます。

2003年の年末、腰に酷い痛みを感じ、鎮痛剤などで誤魔化していたのですが、どうにも痛みが我慢出来ず市内の病院にかかったところ、腎臓結石じゃないか?との医師の弁。その日は日曜という事もあり専門医では有りませんでした。

その夜、どうにも我慢出来ず発狂寸前になりまして、当時同棲していた彼女の車で恵み野病院に向かいました。

この病院は夜間でもレントゲンを撮ってくれるらしく、とりあえず撮影してそのまま入院となりました。

翌日、担当医が触診に訪れ、親族を呼んでくれとのお達し

「ああ、なんかやばい病気だなー」

「癌です」

身体のかなりの箇所に転移していたらしく「半年後の命は保障出来ない状態」とのこと。うーん、告知って案外簡単にさらっと言われるもんなんですねぇ。

こういうときって、ドラマなんかだと目の前が真っ暗になって愕然とするのでしょうが、私は割と実感が無く、「はぁ・・・」という感じでした。

とりあえず北大病院へ転院して下さいと言われ「いやそう簡単に言われても・・家族とも相談しなくてはなりませんし」→「バカ言ってるんじゃない、今すぐ手続きするから」と半強制。

大雪の日でした。

 

北大に着くとすぐあれやこれやの検査でたらい回しにされ、それが終わると私の為の医療チームの紹介が有りました。確か5人くらいだったでしょうか、それぞれ挨拶され物々しい雰囲気。

私はというと、酷い痛みから黙っているのもきつい状態で、痛み止としてMSコンチンに点滴にと何か色々と処方され、痛みは収まるものの、北大のあの陰湿な雰囲気というか何ていうんでしょう、最近の小綺麗な病院と違い、研究施設のような雰囲気というのでしょうか、それがどうにも「病気なんだな」と心に迫ってきてました。

翌日、遠方の家族に変わって医師の話しを聞く際の同伴者として彼女さんが認められたらしく、二人で病状を聞きました。

癌は精巣で発症していたらしく、そこからリンパ、肺へと転移していたそうです。

そのときはまだ核医学検査まではやってなかったので、どこまで病巣が広がっているか解らなかったのですが「助かるよ」とは絶対に言わないんですよね。

とりあえず、精巣の片方の除去手術をすぐ行うこと、その後に抗癌剤を12クール行うこと、次に外科に移動して(主治医は泌尿器科)肺の手術を行うこと、その後、経過を見て腹部の手術を行う事を知らされました。

 

片方の精巣除去に関しては精子保存を提案され、可能かどうか調べる為にシャーレ?を渡され個室で「出して下さい」との事・・・・いやいや・・・

でもまぁ、そのまぁ・・・ハイ。

しかし、出たものは水っぽい液体で、検査したところ精子は居ないとのこと。

え?いない!?笑

どうも精巣で発症する癌の人って、元々無精子症の可能性が高いらしいです。

とりあえず精子の冷凍保存は出来ないという事で、じゃ手術しちゃいましょうとなりました。

精巣除去ってどうやるのだろう?いわゆるまぁ・・汚い話しになりますが・・そのまぁ・・あれを切って開いて取り出すのかとおもいきや、へその下あたりを切って取り出すんですね。

これで晴れて玉無し!っと。

 

この頃はまだ「死」が現実的なものとして認識していかなったのか、或いは覚悟が決まっていたのか、それほど気にしていませんでした。人間いつか死にますし。

が・・・それに悲観したという訳ではないのですが、とにかく不安感に支配され、身体全体が重く何にも集中出来ず、TVや漫画を見てもダメな酷い状態になり、精神科へ掛かる事になりました。おそらくうつ病とはあのようなものなのだろうと、後になり思いました。

しかし数週間もすると落ち着きを取り戻し、抗癌剤治療の時期になりました。この頃は何ていうんでしょう、欲が全く無くなっていましたね。例えば「旅行に行きたい」と思っても「どうせそれは期限付きなんだ」という漠然とした「諦め」を感じていました。

病院の窓から空を眺めて「あーあと何日、この世界を見ていられるのかなー」と、悲しむでもなく、感情が無くなっていたというか・・・

 

術後の経過も良く、抗癌剤を打つ事になりました。

6クールやって期間を空けて6クールの二回、このクールというのは人によって違うようですが、私の場合の1クールは月曜~金曜まで抗癌剤をうち、土日で流し、翌週はクールタイムという流れです。

副作用が凄いとか毛が抜けるとか聞かされていましたが、最初の2クールは特に何も症状が出ず、ただただ電気式の点滴が邪魔だなぁという感じ。

gan

そうそう、この点滴の機械ですが、流量や時間を設定して規則正しく流れてくれるもので、長く使っていると操作方法や設定値の計算方法なんか覚えちゃうんですよね。たまに慣れていない看護師さんが担当になると、私の方が計算が早かったりしました。あ、似た話しで、入院当初、看護日誌?か何かに看護師さんが私の情報などをパソコンで打ち込むんですが、タイピングが遅い女性でして・・・「変わりましょうか?」「お願いしていいですか?」

いやダメだろ看護師さん・・・

まぁ・・・良いらしく私が打ち込みました。

 

抗癌剤の苦しさを実感したのは3回目からでした。

頭髪は事前に丸坊主にしていたのですが、頭髪に限らず腕や足の毛、まゆげやまつ毛に至るまで抜け始めました。しかし、これは痛みなどがある訳じゃなく、逆に面白がって抜く始末。

問題は副作用でした。

とてつもない吐き気と身体の痛み、取れない頭痛、そして味覚がおかしくなりました。この味覚が厄介で、何を食べても酷い味がするのです。しかし、食べないと栄養剤の点滴を打たれますので無理にかっこむ、これが辛かったです。

吐き気も尋常ではなく、お酒を飲んで吐くとかあのレベルの吐き気じゃないんですね。腹の底からゆっくりと身体を登ってくるあの感じは、本当に嫌なものでした。

あと身体の痛み、高熱を出したときの痛みが24時間身体を痛めつけます。ペンタジンを打つとすーっと痛みが取れるので、麻薬中毒患者のごとく看護師さんに「ペンタジン打って・・お願い・・・」と懇願してました・・・やばいやばい。ただ、ペンタジンは2日で3回という規定が有るらしく、切れたときが本当に辛い・・・うん、完全に麻薬中毒。

 

予定の12クールも終わり、外科に移って肺の手術を行う事になりました。

ただ、肺自体は抗癌剤のおかげで割と綺麗になったらしく、癌の為に肺を切るのでは無いとの事。じゃなんで?? どうやら心臓の近くに悪性腫瘍があるようで、これを取り除く手術をするには右の肺を2/3ほど切除しなくてはならないとの事。右脇の下からカメラを入れて切るそうです。

最悪の場合は酸素を抱えて生活する事になるかも?的に脅されたのですが、肺活量などの検査をしたところ、どうも私は通常の倍近い肺活量があるらしく、その他の機能もかなり高いため

「片肺でも大丈夫だわ」との医師の弁

なわけねーっすよね(泣

まぁ今現在、日常生活には支障有りませんが・・先生さすが。

 

肺も切り終わり、残ったリンパの癌を取り除く手術を残すのみ!というとこで亜種発見

更に抗癌剤を4クール追加するとのこと

ただ、この亜種は前の抗癌剤では効かないから残っていたわけでして、別な抗癌剤を使うとの事でした。で、長いこと再発を繰り返している患者さん曰く「実験台じゃね?」とのこと、おいおい・・・まぁ大学病院ですしねぇ。

この抗癌剤になってからも副作用は同様に続きました。

そうそう、抗癌剤の点滴ってアタッチメント付きの針を刺しっぱなしにしておくんですよ。点滴が無いときは管を外して栓をしてテープで巻いておきます。お風呂のときはナイロンを巻いて水が入らないようにして入ります。

ただ、どうもこの方法は血管を痛めやすいらしく、最初は「血管太くて入れやすい」と好評だった私の腕ですが、左右共に血管を見つけるのが難しくなり、胸の上あたりに器具を埋め込み、そこから心臓にカテーテルを入れる手術を行いました。

これは便利なもので、ペットボトルのキャップみたいのが入っており、そこに針を刺します。これだと看護師でも注射が出来るんですね。あ、種類によるらしいですが、看護師は基本、注射しないとかどうとか。

 

さてこのキャップをして予定の抗癌剤を終えた頃、ひどい高熱に悩まされる事になります。

とにかく苦しい。確かに高熱の苦しさはあるけど、それ以上に身体全体が重く、言葉に出来ない苦しさを味わいました。手術後の痛みや抗癌剤の副作用よりも苦しく、この時ばかりは「殺して欲しい」と思いました。

これが収まるまで2週間。

原因は感染症らしく、そのキャップかららしい。

ああ、そういえば・・・

キャップの埋め込み手術のあと、痒くて掻いたんです。

抗癌剤などの影響で傷の治りが遅くなってはいたらしいのですが、パカっと開きまして・・・血はどぼどぼ出るわパックリ開いて器具がむき出しになってるわで、やばいなぁとナースステーションへテクテク

「すいません、なんか開いちゃって。絆創膏か何か貰えませんか?」

「ぎゃーーーー!何してるんですか!!!なんでコールしないの!!!!!」

えらい怒られました・・・

で、緊急手術。

このとき感染したのかもしれません。

 

そんなこんなで日々は過ぎ、お腹の手術の予定が決まりました。術式はカメラで、左右からカメラを入れてやる北大ではまだやった事が無い術式(当時)とのこと。ああ、実験台バンザイ

ただ、この方法だと術後の回復が早く、数日で食事も取れるとのこと。

彼女さん同席での手術説明で、だいたい4時間ほどで終わること、危険な手術で戻って来られる確率は五分五分である事などが説明されました。五分五分カヨ

手術は朝8時から行うとの事で、朝早かったのも有りますが、家族や彼女に見送られるのがとても嫌で「1人で行くから来るな」と伝えました。嫌だったんですよ。これから死ぬかもしれない手術を行うのに見送られるのって。

 

ともあれ手術の日、お迎えの看護婦さんが来てテクテクと歩いて手術室に向かいました。肺と精巣のときはベッドに乗って運ばれたのですが、方針が変わったとかで徒歩なのです。割と可愛い看護婦さんで談笑しつつテクテク・・・

8時とは言っても、入って先ずは麻酔に時間が掛かるようで、というか寝てる横で「○○君もうちょっと下の方だよ」とか聞こえるんですねぇ・・・研修医さん頑張って・・・・

手やら足やら脊髄に針を刺され、一番最後に「さて、いきますよ」との声でとんでもない激しい痛みが来ました。が、すぐガス麻酔で眠りに。運命やいかに。

 

目が覚めておそらく1~2分だと思うのですが、( ゚ ρ ゚ )ボーとした状態から「福島さん目がさめました!」とか色々聞こえた気がしますがよく覚えていません。見上げた壁に時計が掛かっていたのは覚えて居ますが、時刻までは記憶になく、そして意識がはっきりしてきました。

かつて経験したことのない激痛

痛いとかそういうレベルじゃないんです、身体中を鈍器で殴られ続けてるような、ナイフで何度も刺されているような、そんな激痛が襲いました。

「いてーーぇええええ!!」 叫んでいました

足を10針以上縫うような怪我をして、血を流しながら自分で運転して病院に行き、麻酔無しで縫って貰った後に仕事に戻り残業していたような自分が、このときばかりは痛みに耐え切れませんでした。

身体中に管がたくさん生えており、いろんな機械に囲まれたココはICUだと伝えられたものの、そんなことより痛みをどうにかして欲しい。しばらくして病棟の観察室(ナースセンターの横にあり常に看護師の目に止まる場所)へ移動するとのことで、移動用のベッドに乗せられたわけですが、これがもう痛みを倍増させる行為でして・・・

5人ほどのスタッフに囲まれ観察室へ、そしてそこでもベッドに移らなくてはならず、ここでも痛みの確率変動

かなり色々な痛み止めを打たれてはいるのですが、そんなものは何も効かず、ただただ痛い

とにかく移動を終えて落ち着いた頃、彼女さんが来ました。

「いま何時?」

「10時くらいだよ」

「8時に入って10時なら割と早かったんだね」

「ううん、手術したのは昨日だよ」

「んじゃ丸一日寝てたのか」

「ちがう」

彼女さんは手術日の午前中に来て待っていたのですが、予定の4時間を過ぎても出てこず、6時間ほど過ぎた頃に看護師さんから「術式を変えて全開腹しています」と、そしてどうやら6リッター以上も輸血しており、危ないとの事を聞かされたそうです。

それを聞いて宿を予約したそうで、私が手術室から戻ったのは夜中の23時頃だったそうです。結果的に12時間以上の大手術になりました。

当初の予定どおりカメラで手術していたのですが、どこかやばい血管を切ったらしく大出血をし、急遽開腹となったそう、これは事前にそういう可能性もあるのでと聞かされていました。

 

グロ注意

guro

 

とにかく痛みが身体を襲い、色んなものが身体に取り付けられ、身動きが出来ない状態。食事は当然出来ませんが、喉が渇いても水すら飲ませて貰えず、頼んでやっと一口だけ口を濯いでも構わないと許しがでました。

翌日も起き上がれず、とにかく痛みと戦う状態。

三日目になりようやく痛みも少なくなり、ベッドから起き上がってみることにしました。

先ずは身体を起こしてベッドに座り、よいしょっと立ち上がり、点滴棒を杖代わりにしてテクテク・・・

看護師さん「ちょw」

どうやらこれほどの手術をして三日目程度で立ち上がって歩いてる患者なんて稀らしい。

「無理しないでねー。少し歩いたらベッドに戻ってね」

「ハイ」

そのままエレベーターに乗ってました(病棟は8階)

1階の患者のたまり場へ向かい、馴染みさんと挨拶を交わしながら談笑

 

ともあれ、痛みは少なくなったとは言っても痛いものは痛い。そして食事はブドウ糖で、相変わらず水すら飲ませて貰えない日々が続いていました。ただ、やはりどうしても喉だけは乾くので、頼み込んでコップに半分だけ飲んでいいとの許しを頂きました。

喜んで飲みましたとも、毎日コップ五杯ほど。しかも氷入れて。

そこからまた暫く時間が過ぎると割と元気になり、ベッドに居るよりデイルームや1階で馴染みの患者さんと話してる事が多くなっていました。北大って病棟によって看護師の監視が緩かったり厳しかったりするのですが、私のとこは激甘でして・・・消灯時間に居なくても特に怒られる事も無かったです。

そうそう、十代と二十代前半の女の子と仲良くなりまして、夜はたいがいデイルームで話してたんですよ。二十代の子が夜に抜け出して彼氏と会う為のアリバイ工作に協力したりなど。ナニヤッテンダ

このみちゃん元気してるかなぁ・・・

まぁそんな感じで元気ではあったのですが、とにかく食えない飲めないがストレスでして、彼女さんが見舞いにきたとある日

「ジョアが飲みたい」

「ダメだよ」

「いや、今日こそ飲む」

「・・・」

ハイ、飲みましたとも。美味しかった。

飲んだんですが、胃のものを全て外に出す管が鼻から胃に入ってまして・・・そう、全て点滴棒にぶら下がったパックに戻るんですね。

胃液って緑色なのですが、それにジョアが混じってにごり酒のような色に。

「これやばいかな」

「うん」

「捨てて水入れておきゃいんじゃね」

「え・・」

やりましたとも。トイレに捨てて変わりに水を入れて。

 

まぁそんな日々を過ごして約1年、1年もあれば小話はたくさん有りますが、一番悲しかったのは、仲が良かった同じ癌患者のおじいさんが亡くなった事でした。私が居た1年の間で2~3度入退院を繰り返していたのですが、何年かごとに再発していたようで、最後に入院してきた頃は日に日に弱っていくのが目に見えて解りました。

ちょうど私が術後で個室を使っていたのですが、そのおじいさんが来るので空けてくれないか?と頼まれて入れ替わり、数日のたったある日、この世を去りました。

悲しいとかそういう感情よりも、人間って、癌って死ぬんだな、そんな思いが頭を駆け巡ったのをよく覚えています。自分もいつか再発して死ぬかもしれないな、そんな漠然とした思いは今も有ります。

この方だけではなく、いろんな患者さんと知り合いました。

とある日の夜中、眠れなく1階に座っていると泣いてる女性がいまして「どうしたんですか?」と声を掛けてみました。その方の内縁の夫が末期がんであること、治験に協力する事になり、治療費は掛からないが未知の薬の副作用で苦しんだこと、今晩が峠と言われたが、内縁の夫であるがゆえ、看取ることを家族に拒否されたことなどを泣きながら話してくれました。

また、とある女性は片足が無く、車いすでたまり場に来ていました。モデルかと思うほど綺麗な女性で、夜中になっても病室に戻らず、車いすについてるバックにこっそりビールを忍ばせている方でした。なお、飲んだ後の空き缶をよく渡され、捨場に困ったものです。とても明るく、話していて楽しい女性でした。

私は病院支給のパジャマがどうも好きではなく、作務衣を着ていたのですが、頭に髪の毛は無いわ作務衣姿だわで、どこからみてもお坊さん。患者さん達からは「おしょうさん」と呼ばれていました。オイオイ

 

闘病していた1年、本当に色んな経験をしました。

一般的には体験し難いもので、それは治療であったり検査であったり知り合う人であったり様々ですが、一番は

死を実感したことです

死にたいと思うような事は割とあるのかもしれません。自殺未遂をされた方などは死を実感したのかもしれません。

そうではなく、死ぬまでに猶予のある時間を過ごした人間の死の実感はまた違うのだと思います。私は病状から見て奇跡的に助かった稀な例だそうです。

そして一番辛かったのは、見舞いに来た家族や友人知人が、そういう目で私を見る事でした。

これは本当に辛い。大丈夫だよ、元気だよと笑って強がる、それが本当に辛かったです。

 

ともあれ完治し、退院してしばらくは療養しなくてはならなかったのですが、その間にも色々な事が有りました。

子供が出来ない事はやはりお互いの人生にネックになるだろと彼女さんと別れたり、もうとび職へは戻れないのだからと、あえて自分を追い込んで一人暮らしをし、何のつてもなくスタジオキイを本格始動させたり、雷が落ちてなけなしのパソコン二台がぶっ飛んだり(違)

それから10年、細々とでは有りますが、何とかこのWEB業界で生き残ってきました。もう無理かな、そう何度も思いました。中々仕事が来ず、毎日ソウメンだけで何週間も過ごした日も有りました。今ですらもうこの業界から足を洗いたいと思う事が有ります。

それでもデスクに向かうと新しい事を覚えたい、作ってみたい、描いてみたい、そんな欲求で溢れています。

 

日本の未来はあまり明るいものでは無さそうですが、それでも努力することをやめてしまうと、そこで終わってしまいます。

正直苦しい、年齢的にも能力的にも限界はとうに過ぎています。

でも、出来ない事が悔しい、出来たときの嬉しさが忘れられない、一生納得は出来ないでしょうが、それでももがいていたい。

癌からの生還、それは決して明るい事では有りません。人間としても男としても欠陥品になってしまった自分を恨む事も多々有りますが、だからこそ胸を張って生きていくために努力したい。

 

終わり