ロゴ
HOME > 私的駄文 > 情報の取捨選択

情報の取捨選択

2014年09月07日

駄文を少々

インターネットが一般的になって十数年、携帯やスマートフォン、SNSの普及に伴い誰でも気軽にたくさんの情報を得る事が出来るようになりました。これはとても素晴らしい事ですが、同時に、一人ひとりのキャパシティに合わせて情報の取捨選択をしなければならない、という事だと思います。

例えば政治に関して興味を持つ事はとても素晴らしい事ですが、政治家を目指すような人間で無いのであれば、学校で習う以上に知識を蓄える必要性はそれほど無いはずです。もちろん、個人的な興味や好奇心とは全く別な意味では、です。

ネット社会以前はTVや新聞、ラジオといったメディアからの情報が主であり、そこから得られるのは極限られた立場の人達の意見でした。それが偏向報道であったとしても「そうなんだ」という漠然と納得して居た方が多くを占めると思います。

それがネット社会になり、情報の流入が増えました。マスメディアからすると「間違った報道であっても視聴者を誘導するのはたやすい事だ」という時代では無くなったのですね。

元々人間が処理出来る情報量は少ないのだと思います。幅広く見聞を広めるという事は、それに応じた能力=処理能力を問われます。本来限られた方々の役割であったそれを、私のような凡人でも簡単に情報が得られる時代です。

有識者はそれら情報の正否を判断する事が出来るのでしょうが、私のような凡人はそれが出来ません。また、有識者からの情報だけではなく、一般人からの情報もそこに含まれており、膨大な情報の中で、個を保つ事が出来なくなったのが現代なのだと私は考えています。

ここで言う一般人の意見などに耳を貸さなければいいのですが、それが一般人なのか有識者なのか専門家なのかの判断すら出来ない、或いはそういう分け方をする事が出来ない、情報量が多いが故、あたかも頭脳明晰のように振る舞う事が出来てしまい、個体としての自我を、そんな曖昧な情報で埋めてしまう、危うい状況がネット社会だと思います。

これは別に政治や経済といった高度なものだけではなく、例えばホームページ制作という分野で使われる専門用語を、会話の中で検索しつつ、あたかも専門家であるように振る舞う事が出来てしまいます。そう、会話って本来は実際に会って、或いは電話で声で、という現実世界の話しだったはずなのですが、文字会話というスタイルがスマートフォンなどの台頭により、常識化してしまいました。

実は私、TwitterやFacebookって避けているんですね。もちろん技術者として必要な勉強はしています。それらSNSから自分で必要な情報だけを得られるならば良いのですが、自分にとって興味の無い話しまで目に入ってしまい、必要な情報を見逃してしまうのです。また、ずいぶん前ですが、ミクシーで足あとを残すならコメントを残すべきだ、というよく判らない話しが有りましたが、それと同じように、イイネを押す事が義務化、日常化してしまうのがとても嫌なのです。

Twitterも初期は「つぶやく」事が主であったはずですが、会話という形になり、主張の場になり、ビジネスの場になり、その形をどんどん変えてきました。フォローすると要らない情報をどんどん垂れ流すだけのタイムラインに嫌気がさし、どんどんアンフォローして放置してるだけになっています。

得たい情報は同じネットであっても別な方法がたくさん有ります。また、その信頼度を決めるのも自分で出来ます。勝手に垂れ流される情報の中から真を見つけるより、そちらの方がたやすいのですね。あ、ここで言う情報って、個人の愚痴とかそういうは別にいいんです。

広大なネットの世界で、膨大な情報を処理する、それは正しい情報を取捨選択することであり、情報を得る事よりも、その情報が正しいものであるかどうかの判断を別なステージで行う、そう分けて処理しないと、いずれ人は個体としてのユニークさを失い、処理しきれない量の情報が制限なく流入する事によるキャパシティオーバーでぶっ壊れるんじゃないかと思います。

駄文失礼